自分を生きる
自分の考えで生きる
自分の考えを、意志をどこに持っていくかを他人に渡してはいけません
誰かの意見を参考にすることは大切です。
でもそれが正しいということではありません。
みな生きる道が違うのです。
何を自分の正しいとして生きるかはみな違うのです。
自分の考える力・自分のインスピレーションをおろそかにしてはいけません
自分の考えを持って生きること、それを放棄するとき
様々なところからのコントロールを受けることになります。
正しいとされる既存の枠はあちらこちらにあります
でも本当にそれがいいのか
これもまた「いい・悪い」ではありません
「正しい・間違っている」でもありません
ただわたしにとって、それは必要か
わたしたちはわたしを生きるためにここに来ました
わたしはコントロールを2回受けた経験があります。
コントロールの手法がわかっていなかったこともありますが、自分がどう感じるか・どう考えるかをおろそかにしていて、人の意見に左右されていたこと、自分の意志を人にゆだねてしまったこと、情報・枠組みをよくよく観察できなかったこともあります
そして私の魂の人生から見るとたぶん「コントロールを受けてみたかった。そのコントロールから抜け出す手法を学びたかった」というシンプルな事柄かもしれません。
それを通して、様々な学びが前後に展開されていたので。
そこに入ったからよかったではなく、抜けられたからよかった!ということです。
その状態から離れた時
自分自身の頭で考える・自分自身で意思決定して日々を過ごせるとはなんてすばらしいことなのだと思いました。
人をコントロールするというのは、その人の魂を侵すこと
その人自身をなくすことなので、命をなくすことと同じですね
自分の意志・選択を信じていく必要があります
自分の意思決定を他人に預けてはいけません
あの人がいうからこれでいいんだ、テレビで言っているからこれでいいんだ
ではだめなのです
「疑う」という必要性もあります
疑うことが悪いとは思いません
言い方が悪く感じるかもしれませんが、精査すると思えばよいのです
その人自身がコントロールしようとか思っていない場合もあります
結果的になってしまうこともあります
だからお互いに気を付けるのです。
社会のいろんな枠も、そんなところにあるかもしれません
そして「正義」を振りかざす人が一番真実から離れているというのも実感です
一番心の(視野)狭い人でした
自分もまだまだ未熟なので、同じことをしているようなことがあるかもしれません
そしてまだまだいろいろな枠が私の中に存在するのを知っています
そこを超えていくのも今年なのかもしれません
2023年の決意表明のようです
・・・と思いました
ここ数日の意識の中で、強烈なものが昨日出てきて、直談判してました。
そしたら今日ふと開いた本の中に書いてありました。
「わたしの進化を加速してほしいなら、神に向かって元気よく言ってもいいのです。
そのことに明確な意図を持ち、飛躍する覚悟をしてください。様々な象徴的な出来事が起きる時、それに対して心を開いておいてください。
神があなたにパターンを破るための道を示されているのかもしれません。加速度的な進化を依頼するときにはあえて危険を冒して論理的な自分の頭脳が耐えられず叫びだすようなことをやってみてください」
こう言ってください
「私は神によって導かれている。私は加速度的な進化を意図としている。私は私の魂を高めてくれるような仕事をすることを意図としている。私はあえて危険を冒してこれをやってみよう。その意味はよくわからないが、良い感じがする。やってみよう」と
始まりますね!