mariarose1221’s blog

北海道伊達市の母子サポートサロンmariarose ☆ Aroma &Herb ROSEMARY主催

5月5日祈りから始まる

手を合わせること、祈りについて

下記に述べられていました。

 

生きとし生けるものが生き生きと

 

 

祈りについての研究もされています。

全文を読みたい方は下記のアドレスへ

 

 

 

33 愛宕薬師フォーラム

平成30928 別院真福寺

手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-

講師:京都府立医科大学名誉教授  棚次正和 先生

(一部抜粋)

 

 

手を合わせるという行為は合掌するともいいますが、これには衆生と仏のような二元的な対立を解消し統一するという意味があると思われます。一説によると、手のひらから生命エネルギーが出ているともいわれ、右手からは右回りのエネルギー、左手からは左回りのエネルギーが出ています。そして、エネルギーには男性性と女性性があり、右回りであれ、左回りであれ中心から広がっていく拡張性としての男性性エネルギーと中心へと収縮していく女性性の生命エネルギーが出ているというのです。

 

もともと日本語の祈りということばにはどういう意味があったのでしょうか。祈りの語源解釈に共通しているのが、「いのり」の語構成は「い+のり」であるということです。「い」は神聖なものを指し、「のり」は法(のり)や告(のり)と同根であり、みだりに口にすべきではないことばを口に出す、という意味があります。さらに「い」は呼吸(いき)や生命(いのち)のことをも指しています。これに着目すると、祈りは息や神聖なものを宣言することを指しています。つまり生命の宣言です。生命の根源の響きをことばに乗せて響かせる。生命を根源から生きることという意味です。生きるということの具体的な姿は生命の根源から息をするということ、つまりいきいきと生きることが「いのり」の意味です。

 

 

祈りは何をもたらすのか
 祈りがもたらすものについては次の三つの要素があります。その一つ目が霊性の開顕です。霊性とはスピリチュアリティともいわれます。仏教では仏性になりますが、私たちは仏性をもともと持っていることを自覚するということです。私たちは生命の根源から放たれた一筋の光のようなものです。光であることを自覚するということです。これは祈りの実践をとおしてこそ、この自覚が深まっていく。真言宗の場合、大日如来と自分が一体であるという自覚です。大日如来という根源的な仏が自分のど真ん中に鎮座している。自己と超越者がひとつに結ばれることです。
 二つ目は他者との絆を再認識するということです。人間はそれぞれ個に分かれています。肉体によって個が別れているようにみえるのです。だから生きていると孤独を感じたり孤立感を深めたりさまざまな問題が生じています。ところが、祈るたびに自分と他者が心では繋がっているということが、再認識される。私も、他者も根源から放たれた同じ光だと理解できる。だから他者との争いは意味をなさない。するとこの世界は平和になる。自己と他者がつながる。
 三つ目は自然との共生です。自然界の事物がみんな仏性を持っている。ばらばらに分かれてみえているけれど、全てはひとつの生命につながっているということです。自然との共生に気がつくことができる。

 

 

以下転記

 

https://chisan.or.jp/shinpukuji/center/workshop/forum/%E6%89%8B%E3%82%92%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%81%A8%EF%BC%8D%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%80%81%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F/